昭和41年02月23日 朝の御理解
昨日、田主丸の石井さんのところの娘さんの式年祭がございました。御霊様のお祭でございます。ちょうど亡くなられましてから5年になるです。その5年の式年祭が2時から親戚の方達と、それから椛目に一緒に信心のけいこをさして頂いておる同心の方達が、230名集まっておりましたでしょう。本当に真心込めての、まあお祭でございましたが、もうお祭を仕えさしてもらいます私も、まあ居並ぶ面々も御霊様のお祭と、真心込めてこうして奉仕させて頂くということが、もう実感的にですね。
有り難い事だなと御霊の喜びをこう、目の当りに見るような感じ、まぁそう言う様な、いうならお祭でございました。御理解にも教祖の御教えの中に、『狐狸ですら神に奉られると言う事を喜ぶというではないかと。まして人間万物の霊長であるその私共がです、死したる後神に奉られるという事を楽しみに信心せよ』。そう言う様なまぁ御教えを元にしての御理解でございました。そうでございますね、狐狸ですら神に奉られると言う事を喜ぶというではないか、まして人間万物の霊長である人間がです。
死したる後神に奉られると言う事を楽しみに信心せよと。そんならそのお道流儀に改式させて御霊の神としてお祭をされるという事、そういうまぁ浅いものではないと思うんですね。神に祀られるという事を楽しみに信心せよとこう仰るのですから、私共の心が『信心とは和賀心が神に向かうのを信心というのじゃ』と仰るように、私共の心が一段一段おかげを頂いて信心をしておれば、一年一年有り難うなるとこう仰る。確かに信心をしておれば一年一年有り難うなって行く様な状態。そう言う様な事だと私は思うです。
ま例えてまぁ例話をもって言うなら、昨日の朝の御理解の中にございましたようにですね、『痛い痒いが治ったのが有り難いのではない、いつもまめなのが有り難いのぞ』と、こうある。そういう事が分かる信心なんです。理屈を聞けばすぐ分かりますよね。ほんな事そうどころじゃない。痛い痒い難儀なところから助けてもらうという事だけが有り難いのじゃない、もう難儀でない平穏無事で、ね、まめで達者でおかげを頂いておるという事が有り難いと分かる信心なのだ。
その有り難いというのが、有り難いと思うておりますと言う様なもんじゃなくてです、その有り難いというのが、その躍動的なものになってくる。家にはジッとしておられん、ね、お礼参拝デモさして貰わなければおれない。その喜びが日々の御用の上に現されて行くとそういう信心。痛い痒いのが治ったのが有り難いのではない、いつもまめなのが有り難いと言う様な信心が分かって行く。信心は悲しい時の神頼みと言う様なものではなくて、それこそ転ばぬ先の杖であると言う様な信心が私は出来て行き。
又そういう信心が内容として育って行くという事が神に祀られるという事だと私は思うです。神に奉られるという事を楽しみに、信心のない先にはこのくらいな問題が、もう歯がゆうして腹が立ってたまらなかった。ところが段々おかげを頂いて来る様になったら、これは歯がゆい事でもなからなければ腹を立てる事でもない。本当の事が分かったら、これはもう神様の思いの現われ。もうこの位の段じゃない、これ二つ合わせたような事が起こって来ても、ビクともせんで済むようになるだけではない。
『その事自体が合掌して受けられる、有難く受けられるようになって行くという事、内容において。いわゆる物の見方、感じ方というのが変わってくる、ね。まぁ難しゅう言うならば、その一次元の世界から二次元の世界に移り替える。ね、今日そこんところを『信心をさせて頂く者は肉眼をおいて心眼を開けよ』と仰る。肉眼をおいて心眼を開く。肉眼をもって見るとそれは腹の立つことであったり、情けない事であったり、ただそれは病気なら病気しか見えないのだけれど、心の眼をもってするとです。
それは氏子可愛いという神様の御神意だと言う様な事が分かるという、そういう見方。私共の上に次々と難儀なことが、まぁもう本当に何十年の信心もさして貰い、しかも一家を上げての信心さして頂きよるのに、あぁいう難儀な事が私の上に起きてきた。信心しよるとにどうした事じゃろうかと言やあ、もうそれまでだったろうけれどもです、そういう一つの難儀に直面する度に、私の心の眼が開けてきた。ね、いわゆる一次元の世界から二次元の世界に住み替えた。
そこに初めて幸せを感じれれる、いわゆる神様、この世は苦の世苦の世界だと、ある宗教では言うけれども、この世は苦の世でも苦の世界でもないのだ、神様のもうそれこそ思い溢れるところの世界であるという事が分かってきた。ね、信心とは神様を拝むというけいこではなくて、信心とはいう我と和賀心が拝めれるようになるけいこ。ね、こういうような内容。信心のけいこをさして頂いて、そしてだんだん自分で自分の心が拝まれるような有り難い事になってくる。
神に祀られるということを楽しみに信心せよ。自分の心が拝めれるように段々なっていく事を楽しみに信心さして頂くところにです、ね、自分のその心というのがです、御霊の世界にあっても、それを神格という、ね。御霊の格というものがだんだん、おかげを頂きましてから、いわゆる神に祀られる。ね、私共せっかく信心をさして頂くのでございますから、もう本当に信心の、いわゆる神様が、どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよと仰るそのおかげ。
それは病気をしておる人は、その神様のおかげを頂いてから、全快のおかげを頂いてくれよと、ね。お金に難儀をしておる人は、どうぞその貧乏から脱却して、億万長者にでも、の徳でも受けてくれよという神の願いなのですけれども、そのうそれよりかもっともっと、そのう神様の願われるおかげというのは、どのような場合でもそれをおかげと心得れる信心だと私は思うんです。いやどのような場合でも有り難いと、こう感じられる信心だと思うんです、ね。
雨が降れば降ったで有り難い、お天気があればお天気で有り難いというような、自由自在に有り難いという心の使えれる、そういうおかげを受けてくれよと神様は仰っておられるのだと私は思う、ね。これはまぁ親としてですね、子供が親の心に添うて来てくれるくらい親の喜びはありません。子供を持ってみて合点します、ね。天地の親神様の思いとしてですね、本当にこの、私が人間氏子の上にこう言う様な、いわば千万無量の思いをもって、どうぞ『氏子信心しておかげを受けてくれよ。』
という思いを持っておるんだけれど、その人間氏子がそれをそうと気付いてくれない。信心しておかげを受けてくれよと、こう仰るのだけども信心をしない。そこに神様のいうならジレンマがあろうと、神様の嘆きがあろうと思うのですね。そこんところを、どういうような事でも良いから信心のおかげを頂いて、神様の働きを分からしてもろうて、しかもその、神様のお心が分かる。そこんところを、子供を持って合点せよと、こう仰る。ね、子供が可愛いと、こう思うその心が、ね。
いわば天地の親神様が、私共の上を思うて下さる思いぞとこう言うて。ね、そこに私共の信心の一つの開眼というのがなからなければならんと私は思う。これはなら私共でもそうですね。子供達が信心になってくれます。もう本当に親としてこんなに、もう有り難い事はありません。段々これはもう本当にお前、信心せにゃおかげ頂かんぞと、お父さんの信心を受け継いでくれよと、いくら私が言うたって付いてこなきゃ仕方がない。ね、これはもう本当にそうですよ。
いつかそこんところは神様におすがりするより他にない、ね。子供が親の心が分かれば親の思いに添わにゃおられんのだけれども、子供が親の思いが分からん。ね、だからどうしてこの子供が自分の思いが分からんじゃろうかと言う前に、私自身が神様の思いが分からにゃいかん。私はある子供さんが、あのう行方不明になったんですよね。それでもうそれをお願いに見えた母親の方があったです。私その事を神様にお願いさせて頂いた。そしたら神様からですね、子供が可愛いなら親の事をお願えて頂いた。
子供が可愛いと、川に落ち込んで死んでおらんじゃろうか、誰かかどわかされてどこにかへ行ったんじゃなかろうか、というてその子供がいなくなったら、もうそれこそもう気違いのようになって探し回っておる。さぁあそこにも手は尽くしたここにも手を尽くしたけども分からんから、椛目の金光様に参ってお願いして来いという事になってきた。ね、そしたら神様からですね、子供の事を願うよりも親の事を願えと。子供が可愛いなら親を大事にせよと、そういう御理解を頂きました。
それで私は帰りは帰り道に、あの北野のこちらの方の、あそこは何ていう所でしたかね、あの黒岩さんのところは、あそこは( ? )は黒岩さんの所ですたい、あぁ弓削でした。弓削の方でした。それで私が「弓削まで帰る道々に、あんた心の中に思って行きなさい。本当に自分が子供を大事にするけども、親はどのくらい大事にしたか。大事にしてきとるまいが。もう本当にその事をね、すいませんと、もう本当にお母さんすいませんでしたと、お父さんすいませんでしたと。
もう亡くなっておられるお父さんに対しては御霊様に対してです、本当にすいませんでした、親にお詫びしながら帰れ」と私が申しました。「そしてこれからはです、子供が可愛いと思うならば親を大事にさして頂きなさい」と言うて私は申しました。もうその事が心から、「もう先生すいませんでした」、本当に親を、いわばおろそかにしておった事をお詫びされてから帰られた。帰られてからですね、フッとそのう、二階がですねあの、お百姓さんの事ですから。
つちというですねあの、つちという、二階じゃないんですけれど、藁やら何やらいっぱいこづんであるわけです。ほんにあそこまで行って、ほんに探したけれどと言うてから、近所の人からですね、川やら溝やらも探してもらったんですよ。それから二階にその上がられたらね、二階でちゃんと子供は寝とったげな。それがですね、そのおじさんにあたる人から大変怒られてですね、もうその腹ん立ちまぎれ、二階に上がって泣き寝入りしたまま寝とったち。
すぐまたお礼に出て来ましたけれども、「先生私が本当に親にすいませんという気になった、これからはあすこ親を大事にさせて頂こうと思うただけですね、こげなおかげ頂いた」と言うてからその、まあ言うてお礼に出てこられた事があるんですけれど、ね。子供が可愛いと思うなら、親を大事にせにゃいかんです。子供に本当に自分の気持ちを分かってもらいたいと思うならです、ね、私にはどうぞ神様の親神様の思いを分からして下さいと言うて願えと仰る。ね。
親の思いが分からんから親の思いに添わん、親の言う事を聞かんのですよ。親の思いが分かったら、もう親がこげん自分の事を思うておってくれると思うたら、その思いに添わなければおられん。天地の親神様が私共の事をです、こげんも思うとって下さる。ね、そこが分かればです、本当に降っても有り難いのであり、照っても有り難いんだと言う様な事が分かってくるんです、ね。
これはもう人の事じゃありません、私共でもそうです、ね。子供達が私がなら、もうお前はここの教会の長男に生まれ、教会の長女として生まれとるのだから、まぁしっかり信心せにゃいかんぞ。ね、信者さんに対してでん信心せにゃいかんぞ、と言う様な事で信者さんに対してからどん、信心するようなこつじゃほんなもんじゃないと、私は思うとるから、もう子供達には言わん事にしとります。ね、ですから子供達が信心になって行く時には、神様にも一生懸命お礼を申し上げる。
身に余るような信心になって行かない時には、その事を神様に一生懸命お詫びをする。子供が悪いとじゃないち、ね。これは本当にそうですよ、ならここの若先生が毎朝、朝の御祈念にこうやって出て参ります。もうそれこそね、もうそれこそ百人の人に御理解聞いてもらうよりか、長男一人に聞いてもらった方が有り難いような気がするんです、私は。それでここで御理解させしていただこうと思った時にたまたま出てきてないとするとです、もう本当に途端、淋しい気がいたします、ね。
それは私は肉親の情だけでは勿論ないと思います。なぜかって言うとここでは沢山の御信者さん方のですね、その一切をいわばここで扱って、いうならそれだけの力を受けなければここには、後は私の後は継がれんです、ね。為には今修行しとかなければ今信心しとかなければ何時するかと言うたっちゃつまらん。私は今度は御本部になら参らせて頂きますと、一年間なら一年間ここを空けなければならん。その後をこう承るなら二代がです、ね、朝の御祈念にも出て来られない様な事でどうするかとこれは思う。
なら思うからと言うたって出来るこっちゃないのですから、私の不行き届きとして神様にお詫びをするという気持ちになるなら長女なら長女がです、お前は教会の長女として生まれたのだから、しっかり行かにゃ、ご神飯ぐらいお前が炊かにゃ、と言うてしたんでは、私はいけないと。もうここ一年あまり母親に代わりましてね、家内に代わりましてから長女が、もう朝の4時すぎに起きます。清い水を頂いてからご神飯を炊きます。私が朝の御祈念の5時にはもう、一秒たりとも遅れんように出ますから。
その前にご神飯のお供えが出来とかにゃいけません。数日前でしたもう私が下りてきたらまあだご神飯がお供えしてありませんですもん。寝忘れておりましたです。それでもう一生懸命ご神飯炊いて、もうやっとかっと私が、もう出るのと神飯をお供えするのが一緒ぐらいに、まあ間に合いましたけれどもです、その後に出て、皆さんが帰られた後に出てくるんですよ、お詫びに。「今日のご神飯は本当に慌てて炊きましたから、恐らくまっほっこらあっとしたご神飯が出来とらんに違いはない。
まぁいうならゴジゴジご飯かも知れん。どうぞその事をお詫びして下さい、また改めて炊きなおさして今から頂きますから」、と言うて炊きなおしてまたご神飯のお供えをさして頂いて、そういうお取次をさして頂く時に、本当にそれはもう、子供に後ろから拝みたい気がする。ね、まそう言う様な私今日思いでですね、御神前に出たんですよ。ね、例えばなら子供達がその、私の信心を受け継ごうというその精進がです、なら朝の御祈念なら御祈念のお参り、ここに出てくると。ね。
そういう時にお礼を申し上げるのは桜の花のようなものじゃと神様が仰ったです。ねえ、そしてもし今度は、なら出て来ないとしたら、そういう時こそ梅の花の信心ぞと神様が仰る。だからどちらにしたって有り難いんだということ。子供が信心になる事も有り難いなら、親の目に余るような事になってくるという事も有り難い、おかげで修行が出来ようが、親自体が。ね、梅の花と言やあ信心辛抱と仰る。さあそこが辛抱の徳を受ける時ぞ、問題は親自体が助かれば良いのだと、ね。
だから時々はひとつ、子供も私の信心に背くような事もあってまた良しという事になるんです。そりゃあお前どうして言う事を聞かんか、と言うてこちらが睨みつけておったばっかしじゃいけんということ。自分の、睨みつけた自分の心の方ば睨みつけにゃいかん。ね、神様の方にこそお詫びさしてもらわにゃいけん。してみると信心というのはですね、なるほど降ってもおかげであり、照ってもおかげであるという事が分かるでしょうが。子供が親の言うことを聞いてくれる。
本当に有り難いと言うてからそれにお礼を申し上げるのは、本当にいわば、咲そろうた桜の花のように有り難い。というて、なら今度は親の言う事を聞かんからおかげじゃないのじゃない、おかげで信心が出来ようが、おかげで辛抱の徳が身につこうが、それが梅の花のおかげぞ、どちらにしてもおかげ。ね、今日私が皆さんに分かって頂きたいと思うのはね、信心とはそういう内容がだんだん、これに整うて来るという事。そういう事がです、死したる後神に祀られるという事だと私は思うのです。ね。
そして昨日の朝の御理解ではないですけれども、痛い痒いが治ったのが有り難いのではない、いやそれも有り難いのだ。けれどもいつもまめなのという事はもっと有り難い事なんだという事が分かるという信心。ね、信心は悲しい時の神頼みというのではなくてです、ね、転ばぬさきの杖というのが信心であるというような事が、この心の中に分からして頂けれるという内容。そういう事が和賀心が神に向かうて行くのである。
そういう心が、われと和賀心が拝めれるのである。ね、そういう心が祀られる時に始めて神格というかね、神様の格というものが、いわゆる死したる後、そういう心が育って行きよる、ね。私共が何年生きる、お生かしのおかげを頂くか分からんけれども、この調子で自分の心が進展して行き、育って行くならば、いよいよ神に祀られる事が出来るぞという事を楽しみにです、信心せよと仰るのですね。
どうぞ。